第二部・迷惑をかけない
第14章おやすみ
睡吧
中国語の原文からの翻訳です。

彼女はそれでも動いた。足は床を離れず、擦るように進んだ。どの弧も、寸分の狂いなく対称だった。
面の正中のひびは、まだあった。額から下へ伸びていた。とても細く、斜めから光を受けなければ見えなかった。
彼女が擦り出した最初の一歩で、足の甲にあった暗がりが滑り落ちた。影は彼女についていかなかった。その場に留まった。一方の端は、まだ明月(みつき)の靴のかかとにつながっていた。もう一方の端は空いたままで、靴先の形の縁を床に押しつけていた。
靴底を格子に貼りつけたまま、前へ送った。一尺送って止まり、また一尺送った。音はしなかった。振袖の両袖が、体の動きについて回った。右の長袖は右側に一本の弧を描き、左の長袖は左側に同じ弧を描いた。高さは同じで、弧の長さも同じだった。袖口が下りてくる位置は、左右で向かい合っていた。腰から上は振袖、腰から下は鉛色のスラックスだった。その境目は、鋭く切り返す回転のときにも、一分もずれなかった。扇子が胸の前で返った。扇面は内を向いた。また返った。扇面は外を向いた。
明月は数えた。四歩で一つの整数、八歩で一句。第八歩が落ちると、次の一歩は、また第一歩の位置から始まった。
彼女は三句を見た。三句は同じ一句だった。袖口が掃く高さ。扇面が返る角度。爪先が止まったとき、格子の一線との間に空く隙間。三つとも寸分たがわず、重ねると一本の線になった。
明月は、これを知っていた。
少し前――一昼夜ほど前かもしれない。塔のなかの時間を、彼女はもう信じていなかった――彼女の三太刀も、こうして一本の線に重なっていた。あのとき彼女の手首は、いちばん怪我をしにくい位置に置かれていた。置き方は行き届いていて、彼女が決めたものではなかった。
蛍光が鉄骨から一層ずつ降りてきて、白磁の面を照らし、振袖の織り模様を照らした。どこにも汚れは見あたらなかった。明月は、自分が息を詰めていることに気づいた。その息を吐き出した。
舞のどこにも、止まっているところはなかった。待っているところもなかった。半拍余っているところもなかった。踊る者が自分で選べる余地は、どこにもなかった。
第九歩で、扇子が彼女のほうへ一度送り出された。
風は平らだった。扇面から押し出され、まるごと一枚の面になって、格子の上をこちらへ渡ってきた。明月は体をかわした。左肩を先に引いた。あの白い広袖がめくれ上がり、能楽の雲文が外側へ返って、明月の顔の半分を覆った。風は彼女の右肩を押した。そこには何も羽織っていなかった。風は直接、肌に当たった。彼女の体は左へ斜めに二歩、押し流された。
靴底が格子の上に二本の線を引いた。
二本とも歪んでいた。一本は長く、一本は短かった。短いほうは末尾が一度、跳ね上がっていた。この一帯のほかの線は、どれもそろっていた。格子。影兵(かげへい)の肩の線。向かいの人のズボンの折り目。扇子が描いた二本の弧。乱れているのは、この二本だけだった。
彼女の背後で、影兵の輪がまた歩きだした。歩幅は同じで、間隔も同じだった。
彼女は自分の息が上がっているのが聞こえた。向かいの人には、それがなかった。
明月は構えなかった。
彼女は破暁(はぎょう)を脇へ引き寄せた。刀身は右の前腕に沿い、刃は後ろを向いていた。鞘はなかった。この一刀は、本来なら鞘から出るはずだった。彼女の鞘は、自分の前腕だった。
それから、彼女は止まった。
完全に止まった。足の裏は動かず、肩も動かなかった。刀の上の青藍(せいらん)の光が刀先まで走り、そこで止まった。引き返しはしなかった。
彼女は向かいの拍を数えなかった。自分の呼吸を数えた。
一。
二。
舞は彼女の目の前で一句を歩き切り、また第一歩から始まった。輪は彼女の背後を歩いていた。左から右へまわり、また戻ってきた。蛍光灯の管が鳴らす、あの平らな響きが、ずっと耳を押さえつけていた。耳の奥が張ってきた。
三。四。
五つ目の息をするまで止まっていると、左膝がだるくなりはじめた。右膝は左膝より古かった。古いほうは安定していた。だるくなったのは、新しいほうだった。ほどけた桜色の結びから出ている二本の糸が、彼女の手の甲に貼りついたまま、ぴくりとも動かなかった。左の内ポケットには、二枚の紙が肋骨に貼りついていた。一枚は彼女自身のもの。もう一枚は、刀の峰から拾った細い紙の一条だった。その一条は、彼女が立ち上がる前に押し込んだものだった。
彼女は、目だけを一度、上へ動かした。
鉄骨は上へ伸び、蛍光のなかへ入っていた。頭は見えなかった。四本の塔脚が内側へ寄り集まるところ、大展望台の下に、大きなものが一つ立っていた。形ははっきりしなかった。ただ、とても長く、まっすぐ立っていることだけがわかった。文字盤が振り回され、灰が落ち、影兵が歩いていた。それは一度も動かなかった。蛍光がその表面を滑っていった。灰は一粒も、その上に落ちなかった。
六つ目の息を半分吐いたところで、彼女は動いた。
向かいの拍が、どこまで進んだかではなかった。彼女が動きたくなったのだ。
刀が前腕から翻って出た。一瞬で弾けた。体に沿った状態から伸びきるまで、途中の過程はなかった。左目の下の三日月形の刻み痕が、同時に光り、頬骨まで光が伸びた。刃が扇骨を打つ音は短かった。金属の音だ。二つの拍のちょうど真ん中に落ちた。前の拍が過ぎたばかりで、後の拍はまだ来ていなかった。
舞に切れ目が入った。
右の袖は、自分の弧を描き終えた。左の袖は追いつかず、途中で止まって垂れた。振袖の裾に、初めて揃わない襞(ひだ)が一本あらわれた。
明月が数えていた整数が、一度つかえた。
それから、舞はなくなった。
向かいの人の手が速くなった。扇子はもう弧を描かなかった。打つのだ。一打ち、二打ち、五打ち、十数打ち。左から、右から、頭の上から。打つごとに、間隔が詰まっていった。拍子は乱れた。明月のように乱れたのとは違った。速すぎたのだ。ひとつの整数が地に落ちきらないうちに、次の整数が押し寄せた。整数は押し合い、砕けた。
明月は退いた。峰で受ける。受けるたびに、半歩退いた。七打ち目は、まともに受けすぎた。虎口の、皮がすり剥けた所が、また一段熱くなった。
扇骨が折れた。
一本目は要(かなめ)から三寸外のところで折れた。折れた先が飛んで、格子に突き刺さり、立った。二本目も続けて折れ、明月の足もとから一尺のところに刺さった。要の頭の金具が、この乱打のあいだに半分ほど浮き上がった。
折れた二本の骨のあいだから、一枚が抜け出した。それは空中で二度、身を翻して、明月の靴先の前に落ちた。
一枚のカードだった。硬く、ベージュ色をしていた。上下に二つの欄があった。上の欄には「出」と印字されていて、穴は高いところのマスに打たれていた。穴の縁は毛羽立っていた。下の欄には「退」と印字されていた。穴は一つもなかった。パンチの歯が押した浅い跡すら、なかった。「退」欄の第一マスの脇には、そのマスの時刻が印字されていた。十七時三十分。
明月は顔を上げた。
面のひびが開いた。砕けたのではなかった。開いたのだ。額から下へ。左の横の継ぎ目を越えて、斜めに顎へ向かって走った。左側の一片が外れ、その下の半顔があらわれた。
七歩隔てて、彼女に見えたのは、これだけだった。目の下の隈。広い範囲が、暗く沈んでいた。下のまぶたが膨らんでいた。眠り足りない者のむくみだ。もう片側はまだ白磁のままだった。口の端の弧も、一分たりとも変わっていなかった。
「わたしは止まれない。あなたも、止まらないで。」
声はまだ耳に貼りついていた。やはりあれほど小さく、やはり笑いながら。だが、二つの句のあいだに空いた、あの一瞬は、前の句のどこよりも長かった。
扇子はまだ打っていた。誰もいない場所を打っていた。
明月は手を止めた。
彼女は刀を下げた。切っ先は格子から一寸離れていた。立ったまま、攻めなかった。扇の風が両脇を抜けていき、鬢の後れ毛を吹き上げて、また落とした。
向かいの人は扇子を持ち上げ、露わになった半顔の前にかざした。扇面は二本の骨が折れていた。全部は隠せない。一か所、口が開いていた。
「見ないで。この顔は、人に見せられない。」
明月は目を伏せた。
彼女は向かいの人の足を見た。鉛色のズボンの裾が、ちょうど靴の甲に落ちていた。二本の足は、まだ床を擦って進んでいた。左へ一尺送り、右へ一尺送る。一度も床を離れていなかった。止まれないのだ。
明月は前へ一歩出た。
突っ込んだのではない。歩いたのだ。歩幅は、ふだんと同じだった。彼女はその舞のなかへ入っていった。向かいの人の左側まで行き、肩を並べ、同じ方向へ顔を向けた。
こうして、彼女にはあの顔が見えなくなった。
向かいの人が左へ一尺送る。彼女も左へ一尺送った。
彼女は初めて相手の拍を数えた。一、二、三、四。彼女は四拍目に足を下ろした。
この夜、彼女はずっと半拍遅れていた。刀を出すのが半拍遅れ、足を下ろすのが半拍遅れた。話すときの語尾さえ、落ちるべき所より少し遅れて落ちた。いま、彼女は合わせた。この夜、自分から拍を揃えにいったのは、これが一度きりだった。合ったとき、右膝の中で何かが引っかかった。靴を片方、逆に履いたような感じだった。彼女は止まらなかった。
二人の足が、初めて同じ点に落ちた。向かいの人の一歩には音がない。彼女の靴底には音がある。一つ、また一つ。その音を、音のない一歩の上に重ねた。
回る。
彼女は向かいの人と一緒に、一周まわった。白い広袖が明月の背後を掃いていき、向かいの人の長袖が明月の胸の前を掃いて戻ってきた。二つの袖が、途中で触れ合った。一周まわりきり、出発したときの格子の一マスに戻った。
二人のあいだに、一つのものが浮かんでいた。
それは、ずっとそこにあった。一昼夜ぶんの残像が振り回されてできた一周の輪が、塔の四面の文字盤から、かき集められるようにして集まってきていた。だんだん小さくなり、皿ほどの大きさに収まって、耳の高さに浮いていた。飛ぶように回っていた。時間が速く流れていたのは、それが振り回していたからだ。その軸は、向かいの人の髷の横に留まった小さな時計に向いていた。秒針はまだ動いていた。落ち着いた速さで。
次の句の二拍目で、明月は刀を繰り出した。
「この一太刀は、あなたに向けたものじゃない。」
彼女は低く言った。語尾が落ちた。
刀筋が向かいの人の耳の横をかすめた。それほど近く、鬢の一筋の髪が刀風に持ち上がり、また元の位置に落ちた。一本も切れていなかった。
断ち切ったのは、二人のあいだに浮かぶ、くるくると回り続ける時計の輪だった。
残像が真ん中で断たれた。文字盤のガラスが、一片ずつ砕けていった。砕けた欠片は上へ飛び、蛍光のなかへ飛び込んだ。裂ける音は長かった。引き伸ばされ、果てまで伸びて、そこで切れた。塔はそれを送り返さなかった。
あの小さな時計の秒針が、完全に止まった。
それから、ほかの時計も止まった。塔の四面の文字盤が、一面ずつ止まっていった。ホームの掛け時計。踏切の遮断棒の上の時計。コンビニのレジの奥の電子時計。通りの向かいの大型ビジョンの、右上隅の四桁。同じ一秒で、すべてが止まった。
掛け時計の短針は五を、長針は六を指していた。大型ビジョンの四桁は、一、七、三、零だった。
明月は頭を下げ、地面のカードを見た。
打刻機の「退」欄の第一マス。最も早く退勤できる時刻だ。
二人のまわりを歩いていた影兵が、次々に倒れた。格子の上に倒れ、細い紙の一条一条に縮んでいった。街の音が、一瞬、静まった。
「わたしは、ただ……眠りたかっただけ。」
この一句は、耳にまとわりついてはいなかった。横から来たのだ。明月の右手の側、口の高さほどの場所から。遠近があり、方向があった。話す者がそこに立ち、その一角を占めていた。
句と句のあいだの、その空きを、明月は聞いた。息を吸う音だった。浅い。喉のところでつかえ、一度止まり、また少しだけ吸い足した。
明月は振り向いた。
向かいの人の肩が上がっていた。初めて上がって、まだ下りていなかった。胸が、その一息ぶん膨らんでいた。振袖の垂れ線が歪んだ。もう、もとの一本の線ではなかった。
白磁の面が、その割れ目に沿って全体が砕けた。一片ずつ落ちていき、地面の、あの名札の紙の山へ落ちた。一片として、完全なものはなかった。
面の下にいたのは、若い女性だった。
髪は半分ほどほどけ、髷は耳の後ろへずれていた。止まった小さな時計が一筋の髪に掛かって、二度揺れた。目の下の隈は頬骨まで続いていた。右の頬には、浅い跡があった。面の縁が押しつけた跡だ。長く押しつけられていたので、跡は平らになっていた。唇は乾いて、皮がめくれていた。
彼女の口の端が下がった。あの弧は、これほど長いあいだ、一分も変わらなかった。それが今、崩れて下がった。そろわない崩れ方だった。左側が先に下がり、右側は少し遅れてついてきた。
彼女は前へ傾いた。
明月は手を伸ばした。
その手の向かう先は、彼女の肩を押さえて支えることだった。手は途中まで来て、止まらなかった。
肩に置いた。
彼女は見た目より軽かった。額が明月の左肩に落ちた。あの白い広袖を隔てて。破暁は明月の右手に垂れていた。刃の青藍(せいらん)の光が、彼女の頬に映った。淡い一筋。今度は、それを押し戻すものはなかった。
彼女の手は、まだ扇子を握っていた。扇子は開いたまま、二本の骨が折れて、口が開いていた。明月が取ろうとすると、彼女の指はすぐには緩まなかった。少し経って、ほどけた。
明月は腰をかがめ、地面のカードを拾った。二本の折れた骨のあいだの、もとの位置に差し戻した。それから扇子を、一寸ずつ閉じていった。
扇の一片が、彼女の親指の下を一枚ずつ過ぎていった。扇面には、まだ名札の貼られたものもあった。薄い灰色で、濃さはまちまちだった。要(かなめ)に近づくほど薄くなり、いちばん奥の数枚には、跡が数本残っているだけだった。閉じきったところで、親指が、要の浮き上がった頭の金具を押さえた。
ここは、少し待つ。
彼女は半秒待った。
カチ。
ごく軽い音がした。それから、頭の上から、鉄骨のずっと高いところから、もう一度。さらに軽く、カチ。
塔が、それを送り返してきた。明月がこの塔のなかで聞いた、最初の反響だった。
名札が、閉じた扇の隙間から滑り出た。一条、また一条。地面の細い紙も一緒に起き上がり、街のほうへ飛んでいった。いちばん濃い一条が、いちばん先を飛んだ。それらは、それぞれ白い欠けに落ちていった。踏切のところの一か所。コンビニの入口の二か所。さらに遠くでは、一か所、また一か所。落ちるたびに欠けは暗くなり、人の形になった。肩はその人の肩。頭はその人の頭。数条はとても遠くまで飛び、交差点を越えて、見えなくなった。
街を歩いていた人の足が、遅くなった。塔を振り返って見る者は、一人もいなかった。
要(かなめ)に近い、褪せた跡の数本は、動かなかった。
彼女は向かいの人を抱えて、塔の基部の石段の上まで運んだ。
向かいの人は、もう眠っていた。明月は左肩の紐をほどき、あの白い広袖を外して、その体にかけた。能楽の雲文が上を向いた。明月の両肩は、露わになった。身につけているのは、あの深い紺の短い上衣だけになった。夜明け前の風が左から吹いてきた。左肩に、細かな鳥肌が立った。
彼女は段の下、三歩離れたところまで退いて、立った。
時計は止まっていた。彼女は自分の呼吸で数えた。二十回、息を吸った。白い広袖の裾が、九度、上がって下がった。均等ではなかった。四度目と五度目のあいだが、長く空いた。空いた時間は、明月が前へ半歩出るほど長かった。五度目が来た。彼女はその半歩を引き戻した。
塔の基部の下の暗がりから、三人が歩いて出てきた。
先頭の一人はトレンチコートを着て、手に鞄を提げていた。鞄の角は擦り切れて白くなっていた。三人はとてもゆっくり歩いた。一人のあとに一人が続いた。歩幅はそろっていなかった。空き地の縁まで来ると、先頭の一人が立ち止まり、自分の足もとを見下ろした。その足もとには、影が一本あった。
明月は数えた。三人。
彼女が数えてきたのは、いつも残りの人数だった。いまは零だ。
「眠って。次の塔は、わたしが行く。」
彼女は平らに言った。語尾が落ちた。この一句も、塔が少しだけ送り返してきた。段の上の人は、目を覚まさなかった。
鉄骨の蛍光が、一層ずつ消えはじめた。
塔の基部から始まり、上へ向かった。一層目、二層目、三層目。層と層の間隔は、それぞれ長さが違った。彼女は首を仰け反らせて、その後を追った。十二層まで来ても、首にはまだ余裕があった。
最後の一層が消えた。上には、光の柱はなかった。
鉄骨に、初めて頂きができた。
四角い大展望台。四隅は丸い。そこから上へ細まり、白い小さな太鼓。その上に、少し太い一節。そして、細い針。針の先が、白んだ空に刺さっていた。頭(かしら)があり、尽きるところがあった。
東の低い空が白みはじめた。とても薄い橙紅(だいだいいろ)の一筋が、鉄骨の東側の稜線から滲み出していた。塔の脚から上へ、斜めの支柱に沿って伸び、大展望台の下まで来ると薄れた。その一筋だけだった。ほかは、まだ灰色のままだった。
上には、もう時計が一つもなかった。ただの塔だった。
足もとの格子ももうなかった。アスファルトが現れていた。黒く、夜の湿り気を含んでいた。彼女の靴底がこすった数本の跡が、まだアスファルトに残っていた。一尺ほどの長さで、歪んで、縁が毛羽立っていた。折れた扇骨が二本、そばに倒れていた。
それから、塔のなかの、あれが動いた。
四本の塔脚のあいだ、大展望台の下で、立っていた大きなもの。それが、初めて動いた。鉄骨の横の支えが、それを挟んでいた数本の横材から、一本ずつ両側へ退いていった。それは、先に北へ動いた。とても遅く。二本の塔脚のあいだから抜け出て、空き地の上空まで退いた。それから、その頭がゆっくりと下りてきた。
水平になって、明月にはそれが何か、はっきり見えた。
一隻の船。
船首は楔(くさび)の形をしていて、いちばん先が鑿(のみ)の刃先のように細く絞られていた。その後ろに低い艦橋があり、三面がガラスだった。ガラスは暗かった。さらに後ろは、透かし彫りの背骨になっていた。骨の隙間から、その後ろの白んだ空が見えた。尾は重く、上に二枚の鰭(ひれ)が平行に立って、後ろへ斜めに傾いていた。船殻は白っぽい灰色だった。橙色の一本の線が、船首から船尾まで引かれていた。これだけ離れると、ただの細い線にしか見えなかった。船腹の下には、いくつかの光が灯っていた。どれも、喉の奥の琥珀色の一点にすぎなかった。船はこの数点に支えられ、そこに浮いていた。舷側に赤い一点。尾に白い一点。数秒おきに明滅していた。
船体に名前はなかった。艦橋の下に、番号が一行、吹きつけられていた。LM-1-02。文字は灰色で、船殻より一段濃かった。
さっき鉄骨のあいだに立っていた、あの姿を、彼女は会社で見たことがあった。打刻機の横に並ぶ、カードラックだ。カードが一枚ずつ、立てて差し込まれていた。退勤の穴を打たれていないものは、ずっとそのまま差さっていた。
北の空が、一か所、空っぽになった。
あの円は消えていた。隣の黒い口も消えていた。その一角の空には、もう何もかかっていなかった。ほかの空と同じで、灰白だった。
南東の方角、海のほうに、遠く、低く、一つの灯りが浮かんでいた。赤い一点、緑の一点、その真ん中に白い一点。数秒おきに明滅していた。それがどれほどのあいだそこにあったのか、彼女は知らなかった。光の柱が灯っているときは、その外側は何も見えなかった。
回廊には風がなかった。
左肩には、もう何も垂れていなかった。長いこと歩いた。両肩とも、空だった。
石段が一段ずつ、前へ並んでいた。途中で途切れていて、その切れ目はちょうど一歩分だった。彼女は数えた。第三十一段の、あの横線はまだそこにあった。彼女は歩いて通り過ぎた。しゃがまなかった。その線は、指の腹が覚えていた。一方の端は深く、もう一方は浅い。起筆も収筆も、指で触れてわかった。
第四十四段の切れ目に、二本目があった。
彼女はしゃがんだ。
こちらも一本の横線で、やはり短かった。第三十一段のものより浅かった。あまり浅いので、指の腹で端から端まで撫でても、起筆がどちらかわからなかった。撫で戻して、もう一度撫でた。二度目で、わかった。収筆のほうの縁が毛羽立っていて、上へ反っていた。ならされてはいなかった。
今度は、二度なぞった。
彼女は立ち上がり、上着の上から左の内ポケットを一度押さえた。二枚の紙が、肋骨に貼りついていた。
出口は狭い隙間だった。肩より狭く、横向きになって通らなければならなかった。
隙間の底は、ホームではなかった。あの船だった。一つの船室の扉が開いていて、扉の内の灯りは白かった。扉の脇では、船殻の橙色の細い線が、ここを通って、船尾まで続いていた。
ホームの掛け時計は、五時半で止まっていた。
彼は自分の腕時計を見た。プラスチックのバンド。画面は十七時三十分だった。数字は、もう変わらなかった。
次の打刻まであと何分あるかは、もう数えなかった。
彼は右のズボンのポケットに手を入れ、三条の紙を取り出した。紙の縁は毛羽立っていた。左の手のひらに広げ、一条ずつ並べて、破れ口を合わせていった。右端まで来ると、一条足りなかった。いちばん右の欄がなかった。そこには、毛羽立った縁が一本、残っているだけだった。
彼はしばらく、その毛羽立った縁を見ていた。探しには行かなかった。
遠くで電車の音がした。始発だ。ホームの端のコンビニでは、おでんの鍋がまだ火を入れてあった。湯気が上へ上がり、灯りの下まで来ると散った。自動ドアが一度開き、また閉じた。入口には誰もいなかった。
彼は頭を上げた。顎が襟から離れるまで上げた。
誰も彼に顔を上げろとは言わなかった。ホームでうつむかなかったのは、これが初めてだった。北の空は、がらんとしていた。彼は今まで、北の空に気づいたことがなかった。東の低いところが白んでいた。光がそちらから斜めに差して、彼の影をホームの上へ押し出していた。長い。靴の先から前へ広がり、黄色い線を越えて、向かいの柱の根もとまで伸びていた。
うつむかなくても、彼にはそれが見えた。
彼の足もとに、初めて、自分の影が落ちていた。
翌朝、電車の窓ガラスに、彼の顔が映っていた。彼はそれに向かって練習はしなかった。
会社に着くと、引き出しから透明テープを探し出した。三条の紙を裏から貼り合わせる。テープは短く切り、平らに貼った。彼は上司の机の前まで行き、その紙を机の上に置いた。右側の一欄が欠けていた。破れ口は毛羽立ったままだった。
上司が顔を上げた。まず、彼の胸の白いカードに目が落ち、一度止まった。カードケースの中には、何も書かれていない。七週間で、それを見た者は、これが初めてだった。
「おはようございます。」
彼は言った。大きくもなく、小さくもなく。言い終えても、頭は下げなかった。その後に、別の言葉も続けなかった。
頭上で蛍光灯が光っていた。彼の足もとには、自分の影が伸びていた。