第一部・調和の下で
第9章全員の名を
全部点名
中国語の原文からの翻訳です。

彼は下りてこなかった。
彼は右手を上げた。掌を前へ向けている。太極の起手式(きしゅしき)だ。
この型は、彼女が習ったものではない。彼女が習ったのは飛天(ひてん)だった。書場の舞台裏で覚えた起腔(きこう)であり、聴き手の板眼(ばんがん)だった。太極は他人の家のものだ。それなのに彼は、誰よりも整然と使ってみせる。整いすぎて、どの拍も前もって測ってあったかのようだ。
彼女の声はまだ消えきっていなかった。さっきの一句は彼女の足もとに落ち、殿の中で誰も受けなかった。いま彼の掌が上がり、その一句を受け取った。彼が前へ押すと、その声の輪の上に金が一層染みた。和諧金だった。色は均一で、どの線も同じように平らに押さえつけてある。彼は彼女の声をそのまま押し返した。一字一字が、彼女の耳の同じ位置へ戻ってくる。速くもなく、遅くもなく、一拍も多くはない。
彼女は一歩下がった。二歩目。三歩目。
靴底が玉白の床石の上でキュッと鳴った。短い音だった。壁に遮られ、尾を引かなかった。
彼は二度目の押しを出した。今度はさらにゆっくりだ。左へ一度、右へ一度。両側の力は同じ重さで、強拍の上に落ちる。肩は上げず、腰も沈めない。掌を前へ送り、一寸引いて、また送り出す。整っているのは彼のほうだ。この殿の中では、どの物も一ミリもずれていない。
階段は二十七段。彼は最上段の、段の真ん中に立っている。この距離から見ると、彼はただ一つの形にすぎない。とても端正な形だ。両手には白布が巻かれている。布は指の根元から手首まで届いている。頭には墨のように黒い館巾(かんきん)を締めている。額の前を横切り、後頭部で結ばれて、縁は真っ直ぐだ。
彼女はその手を見ていた。金色が一層ずつ上へ塗られていく。指先まで塗り尽くすと、そこから下へ流れ落ちる。
彼女はもう叫ばなかった。
三級降格の一撃は、まだ彼女の身にのしかかっている。彼は、彼女が話せるのは許された字だけだと言った。あの数語が喉からどうやって押し出されたかを、彼女は覚えている。どの字も、先に門を一度くぐらなければならなかった。門はまだそこにある。ただ、彼女はもう門の中を通らない。彼女が言いたいのは事実だ。事実は門をくぐる必要がない。こうしたことは、もともと門の外にあったのだから。
彼女は両手を体の脇から上げた。肘が先に動き、手首があとからついてくる。これは飛天の起勢(きせい)だ。彼女は十歳のとき、書場の舞台裏でそれを見ていた。通しで見たが、覚えているのはこの一式だけだ。腰を後ろへ折る。三つ目の曲がりまで折る。披帛(ひはく)が肩から投げ出され、右の腕を回り、さらにその腕の上から放り上げられる。墨青(ぼくせい)の長い布は、末端がとうに光の粒となって散っている。光の粒は空中で一粒ずつ灯り、上へ昇っていく。
彼女は口を開いた。声には、少しだけ旋律がついていた。書場で覚えた起腔だ。
「どの道だ。」
金色が迎えに上がり、一字目の上に落ちた。
「安福支路(アンフー・ジー)。東の端から西の端まで、千百メートル。」
二字目も押し当てられた。彼女は止まらない。金色は声をたどって引き返し、彼女の口もとへ戻ろうとする。だが三字目は、もう外へ出ていた。
「一日に三回。二番目のゴミ箱の脇には、いつも開けられた宅配袋がある。袋の口は細く裂かれている。」
この一句を言い終えると、彼女はそのあとに半拍を残した。金色はもう迎えに上がっていた。迎えたのは、数えきれない空白だった。その空白は字ではない。押せる字がないのだ。金色は一面にずり落ち、床石の上に落ちて、跡一つ残さなかった。
彼の右の拳が胸の前から打ち出される。どの拳も杭の拍子の上に落ちる。ぴたりと合っている。彼女の半拍は拍子と拍子のあいだの隙間にあり、拳は打ち込まれても、隙間の縁に触れるだけだ。拳が引き戻される。その引きに息継ぎはない。
「五番目のゴミ箱の脇に、食べ残しの飯が半分ある。容器の蓋は閉まっていない。箸が飯に刺さっている。」
彼の拳がまた出る。やはり拍子の上だ。拳は空白の中へ落ち、何にも触れなかった。
「九番目のゴミ箱は三本目の橋脚のそばにある。底の跡は、斜めの口で一度ぐるりと回す。手首を返すこと。」
これらは名簿から読んだものではない。彼女は一晩ずつ覚えていった。夜の屋台の第七テーブルに座り、一人の人が西の端から東の端まで掃いていくのを見ていた。箒の斜めの口は後ろを向き、ふくらはぎに当たる。一歩ごとに一度当たる。彼女は三週間かけて覚えた。事実は一件ずつ外へ出ていく。どの一件にも、場所があり、数があり、物がある。金色を塗っても、これらの事は覆えない。これらの事は殿の中で一件ずつ立っている。誰かがその一件ごとに名前を書く必要はない。
彼の手が一度止まった。
「それはスローガンだ。」
この一句を言うあいだも、彼の声はひとつのままだった。一字一字が拍の上に落ち、言い終えても余韻はなかった。
彼女は披帛を体の前へぐっと押さえた。声の輪が披帛の上で一周、光った。一つ、二つ。
「スローガンではない。これは、彼女が昨日何時まで掃いたかだ。」
「昨日、夜の屋台まで掃いたのは十時二十分だ。」
「十時半に仕事を終えた。箒は四番目のフックに掛けた。斜めの口は上へ向けて。」
あの夜、彼女は第七テーブルに座っていた。携帯は竹串入れに立てかけてあり、画面はずっと光っていた。彼女は文字を打たなかった。周素蘭(チョウ・スーラン)がしゃがみ込み、テーブルの下の竹串を一本ずつ掻き出した。立ち上がり、箒を前へ押す。彼女はその人の右肩を見ていた。左肩より一段低い。掃くたびに、さらに少し低くなる。彼女が覚えたのは、これらだ。
その数字を言い終えると、殿の中は一瞬で音がなくなった。彼が止まったのではない。この一句を、彼が受けなかったのだ。金色は途中まで押し出され、彼女と彼のあいだで止まった。扉のない壁のようだった。
彼女は、彼の右の拳が胸の前で一度固く握られ、また緩むのを見た。
彼は三度目の押しを出した。今度は掌ではない。腕全体だ。音の波が彼の体から押し出され、彼女の胸めがけて押しつけてくる。彼女は壁の中へ押し込まれた。壁は柔らかい。だが、柔らかくはない。背中が貼りつき、跳ね返らなかった。披帛は押さえつけられ、床に貼りついた。
彼女は避けなかった。その力を借りて、体を上へ翻した。足が壁を一度、軽く踏んだ。壁に灰はなく、足を置いたところは乾いていた。音の波の頂を越え、腰を最も深く後ろへ折る。宙で反弾琵琶(はんだんびわ)の決めの姿になる。琵琶は彼女の懐にあり、弦は張られ、撥は宙に浮いて、誰かが弾くのを待っている。
披帛が飛んでいった。
墨青の布は、末端の光の粒が尾を引いて一筋の線になり、彼の肩の上を越えていく。彼の背後へ回り、あの杭を巻く。一周、また一周。最後の一周が杭の上半分をきつく締める。杭が一度鳴った。鈍い音だった。彼は振り返らなかった。
彼女は降り立った。
覚醒の紋様は、最も内側の輪から光り始めた。一つ、二つ、三つ。輪が一つずつ青藍(せいらん)に光っていき、鎖骨まで届いた。彼女が口にする一字ごとに、輪が一つ灯る。今度は、どの字を話してよいかを選ばなかった。
「全員の名を呼ぶ。ひとりも消さない。」
この一句は外へ出たが、押し当てられなかった。金色はまだ殿の中にあった。彼は遮らず、染めもしなかった。この一句はまっすぐ進み、彼の館巾にぶつかった。
館巾が真ん中で断ち切れた。墨のように黒い布が二切れ、額の前から分かれて下がる。一切れは彼の肩に落ち、もう一切れは床へ落ちた。玉白の床石の上で、音は一つもしなかった。
彼は左手を上げ、自分の頭のてっぺんを撫でた。二度撫でて、ようやくそこに何もないと分かった。
右手は体の脇で開いた。何かを受け止めようとするように。掌には何もない。その手は宙で一拍遅れ、止まり、また引き戻されて、握りしめられた。強く握られ、指の関節が白い。
握りしめたその瞬間、右の腕に巻かれた布がゆるんだ。彼は下を見なかった。
布は一周ずつ下へゆるんでいく。手首の骨から手の甲へ滑り、指の根元で止まった。布の下の手の甲はなめらかで、たこはない。杭には三千あまりの拳の跡がついている。そのどれも、この手から出たものではない。
彼女はそこに立っていた。光の羽は背に収まり、細い帯だけが残っている。彼女は床の館巾を拾わなかった。披帛も引き戻さなかった。前へ一歩も進まなかった。
殿の中は静かだった。彼女の靴底の水が、床石の上に二つの跡を残している。一つは右足の跡、もう一つは左足の跡だ。彼女はもう動かなかった。
彼の顔。
口は閉じていた。長いあいだ閉じていた。目は開いている。黒く、光がなく、彼女が立っている場所に落ちている。
彼は息を吸った。長衫の前襟が、それにつれて一寸ほど膨らみ、また落ちた。
彼が口を開いた。一つの声で、一字一字が拍の上に落ちた。
「わたしは囚われてなどいない。これは、わたしが選んだことだ。」
この一句は壁にぶつかったが、戻ってこなかった。言い終えると、彼はもう彼女を見なかった。
彼女はその言葉を受けず、何かを指摘もしなかった。彼女が見たのは、この一つのことだけだ。あの手は長いあいだ握りしめられ、ずっと緩まなかった。彼女はそのことを受け取り、口には出さなかった。
彼の左手は右の腕の上で止まった。ゆるんだ布を上へ巻き直す。三周目まで巻き、途中で止まった。布はまたほんの一筋ゆるんだ。彼は締め直さなかった。布の角には一針縫い目があり、糸はもと赤だったが、いまは灰色に褪せている。彼はその角を揃えた。ぴたりと合わせた。
彼はもう何も言わなかった。殿の中で誰も受けなかった。右手はまだ握られている。指の関節が白くなるまで。
彼は左手を右の腕から下ろした。体を回し、彼女に背を向けて、杭に巻かれた布を解きにかかる。
指の関節の外側で、布を一つずつ払いのける。布は軽く、末端はまだ光の粒で、一粒ずつ彼の掌の中に浮いている。解く手つきはとても遅い。
布が杭を離れた瞬間、杭の身から、ごく細い割れる音がした。彼女は遠くにいて、見えたのは、杭の中ほどにある古い割れ目のそばに、もう一本の白い線が増えたことだけだ。上から下へ、斜めに一掌ほど走っている。
彼は体を回し、布を掌に載せて、階段の頂から下へ置いた。布は階段を伝って滑り下りる。一段ずつ、彼女の足もとまで滑った。
「あなたに返す。」
今度は、彼の声に行き先があった。壁がその三字を受け止め、送り返してきた。戻ってきた声は彼女の声より遅く、まだそこにあった。
彼女は身をかがめて受け取り、布を一度折って、腕に掛けた。布は彼女の手の中で温かい。光の粒が指先から上へ昇り、袖口へ入り、なお上へ昇って、右の耳の後ろの輪まで届く。その輪は、わずかに澄んで光った。彼女は何も言わず、ただ一度うなずいた。光の粒は手首に巻きついたまま、散ろうとしない。彼女はその粒を巻かせておいた。
壁が透けた。殿の中にはもともと灯りがなく、光は壁そのものが放っていた。均一で、四面とも同じように明るい。いまは外から光が入ってきた。一片ずつ、斜めに床石の上へ落ちる。
玉白の壁が一片ずつ薄くなっていく。外が見えるほど薄くなり、誰かが一層の霧をぬぐい取ったかのようだ。ぬぐわれたところに見えるのは、明珠塔の外側だ。
三本の支柱、いくつかの斜めの支え。大きな球が、支柱のあいだに挟まっている。球の窓は一つずつ灯っている。灯っているのはふつうの白で、流れる光はない。マストはまっすぐ上へ伸び、その先に何があるのかは、彼女には見えない。雲がそこにある。今度は、塔の全体の輪郭が見えた。江の面から始まり、下の球、上の球、そして宇宙カプセルまで。一棟の建物だ。塔はもう光を流さない。ただの一棟の建物だ。
そのとき、塔の奥で、大きなものが一度動いた。
光ではない。物だ。それはとても大きく、ほとんど動かず、塔の中に長くいた。長すぎて、塔の躯体の重みがすべてその上にかかっていた。それが一度動くと、塔の中から低い響きが伝わった。あまりに低く、耳がまず感じ、そのあとで聞こえた。その響きが過ぎると、それはまた動かなくなった。
壁の中に一枚の表が浮かび上がった。それに正対している。淡い色で、玉白の地に、枠はない。表には一行だけ字がある。「未入館の物は、通行を許さない。」
彼女にはそれの縁が見えなかった。ただ、それがそこにあることは分かっていた。彼女の足もとに、壁の外に、もっと深いところに。
彼女は振り返り、西の壁へ歩いた。壁はまた一層薄くなり、一枚の窓になった。
窓の外で、川向こうの灯が一つずつ灯り直していく。まず東寄りのものが、続いて西寄りのものが。もともと灯っていたのは十五個。今度は十七個すべてが灯った。西の端の、長く壊れていた二つも灯った。
彼女は顔を上げた。北東の空に、あの円がまだ掛かっている。淡い紫の縁、白い雲、黒い口。黒い口の縁には白い輪が一本。ただ、左側が一部欠けている。欠けた口の中の空は、ふつうの夜だ。雲もなく、輪もなく、何も掛かっていない。欠けた以外の円は、まだそこにある。
屋台の覆いの下で、誰かが立ち上がった。屋台の主人の声が川を隔てて届いた。熱っぽく、よく響く声だ。ひと声で窓辺まで届いた。
「入って座りな!スープはまだ熱いぞ!」
屋台の中の人々が、一人ずつ腰を下ろしていく。碗と箸の触れ合う音がする。その音は川を隔てて、とても細い。ほとんど聞こえないほど細いのに、ずっと続いていた。
通りの人々はまだうつむいたまま、一人ずつ向きを変え、西へ歩いていく。高架の下をくぐり、灯のともった屋台の前まで来る。何人かは足を止め、屋台の外に立ち、それから中へ入っていった。
屋台の主人は、二度目の声は上げなかった。長柄の杓子を鍋の縁に置き、鍋の蓋をめくった。白い湯気が持ち上がり、また落ちた。右肩には、濃い灰色のタオルが掛かっている。彼女は第七テーブルに、何晩も座ってきた。彼が通りに向かって一言でも声をかけたことは、一度もなかった。声をかけるときも、振り向かなかった。今回、彼は振り向いた。彼女のほうの窓を一度見て、また戻っていった。
ポケットの中の携帯が一度光った。
画面は白かった。白が一点ずつ退き、ふつうのガラスになる。その上に、ひどく古いメッセージが浮いている。三週間前に届き、ずっと読まれていなかった。送り主の表示名は「修傘」だった。
メッセージは一行だけだった。
「三本目の傘骨は取り替えた。いつ取りに来る。」
彼女は返信しなかった。親指は画面の上で止まり、半秒ほど止まってから、離れた。もう一方の手は体の脇に垂れたまま、太ももの外側を三度押した。一度、また一度、もう一度。
壁の上の窓が閉じた。殿の正面、もとは壁だったところに、扉が一つ開いた。
扉の外は川べりではない。石段だ。
石段は一段ずつ上へ続いているが、途切れ途切れだ。途切れ目の幅は一歩ぶん。彼女は歩いていく。一段目。二段目。途切れ目の縁にあるあの浅い溝は、まだそこにあった。今度は近くにいたので、溝の縁がはっきり見えた。中に一画、縦の線がある。その線はまっすぐで、後ろの部分は磨り減って消えていた。彼女は頭を下げて、もう一度見た。それでも、全部は読めなかった。彼女はしゃがまなかった。
石段は上へ、数えきれないほど続いている。七十まで数えたところで数字が乱れた。それで数えるのをやめ、足もとの一段だけを見ることにした。どの段にも途切れ目がある。その幅はどれも同じで、ちょうど一歩ぶんだ。彼女はこの道を最初に歩く者ではない。一歩ごとに、まず次の段がどこにあるかを見つけなければならない。見つけてから、ようやく踏み出せる。この点は、階段を下りるのとは違う。階段を下りる者は、探す必要がない。
彼女は彼の名簿を思い出した。名簿に書かれているのは名前で、名前は消せる。一人を消すことはできる。だが、ゴミ箱の脇は消せない。千百メートルは消せない。十時半に箒を四番目のフックに掛けた一人の人も、消せない。これらは彼の表にはない。だから、線を引く場所がないのだ。
石段の片側、空中に一つの扉がある。透明だ。扉の向こうは東京の通りで、地面は濡れていて、灯は白い。古いシャツを着た人が、一枚の自動ドアの前に立っている。ドアは開かない。シャツの第一ボタンは一番上まで留められている。その人はドアに向かって頭を下げる。深く下げ、そのまま止まる。長いあいだ止まってから、もう一度下げた。
扉の中には、ほかに誰もいなかった。扉の中は空で、地面も空だった。
彼女は石段の上に立ち、その扉の方向へ体を向けた。
「東京。誰かが、何も間違えていないことで謝っている。」
その扉はゆっくりと閉じた。扉には字がない。扉の向こうの人は顔を上げなかった。石段はまだ上に多くの段が続いている。途切れ目の幅は一歩ぶんだ。彼女は次の段がどこにあるかを見つけ、踏み越えた。
翌日の三時四十分、周素蘭が目を覚ました。灯はつけなかった。
帽子のつばの折り目を二度つまみ、元の位置に戻した。粥は昨夜煮たものだ。保温桶に移し、立ったまま碗の半分を飲んだ。残りには蓋をして、上着の右のポケットに入れた。饅頭は紙袋に入っていた。平たく潰し、半分を残してある。紙袋には朝食の店の名前が印刷されている。字は半分擦れていて、「豆」の一字だけが残っている。彼女は毎日その字を見ている。
戸口に靴が二足ある。彼女は自分の靴を履き、靴紐を結び直して、結び目を二つ作った。
鍵を三回半まわした。鍵は手首に掛けてある。その輪ゴムには、また一つ欠けが増えていた。
四時十分に清掃詰所に着いた。四番目のフックには彼女の箒が掛かっていて、斜めの口は上を向いている。小黄(シャオ・ホアン)が二番目に来た。手袋をまた裏返しにはめている。彼女は何も言わなかった。
五時に掃き始める。千百メートル、一日三回。一回目は昨夜の落ち葉を掃く。二回目は朝市の菜っ葉を掃く。三回目は夜で、九時から掃き始める。
昨夜、通りの人々はみな、うつむいて歩いていた。彼女もうつむいて掃いた。橋脚のあたりに、塔から一筋の光が落ちて、高架の下を照らしていた。彼女は顔を上げなかった。ゴミ箱の脇の灰のほうが、空の出来事より大事だ。灰は掃き切れなければ、翌日もまた掃く。
三回目は西の端から始まる。洗髪店の女が戸口の腰掛けを中へ運び入れ、振り返って彼女を一度見たが、何も言わなかった。果物屋台の人は西瓜に布を掛け、布の角ごとに煉瓦が載せてある。彼女の箒は東へ向かって一路進む。シャッターも、照明看板も、電柱も、順に掃いていく。
二番目のゴミ箱の脇には、いつも開けられた宅配袋がある。今日もある。彼女は午後にもここを掃いたが、そのときはゴミ箱の脇に何もなかった。いまは宅配袋が残っている。袋の口は細く裂かれている。彼女はその袋を端へ寄せ、ごみ収集車に残しておくことにした。
今回、彼女はゴミ箱の脇を掃いたとき、手の下に何かが触れた。
碗だった。碗の外側は油紙に包まれている。紙は熱気で柔らかくなり、まだ熱かった。彼女は油紙をめくった。碗の底の熱が掌へ上がってくる。熱気が碗の縁から少し立ち上り、夜風に吹かれて散った。碗の中は麺だった。スープの上に油は浮いていない。麺は碗の底に横たわり、刻みネギが載せてある。
碗の底に、一枚の紙が敷いてあった。
紙には時刻が一つだけ書かれていた。
字は速く書かれていた。最後の一画が引き出され、墨が小さく尾を引いている。
十時半。
彼女はこの数を知っていた。三週間前に、眼鏡をかけた若い女性へ答えた数字だ。その日、女性はテーブルの下にしゃがんで尋ね、彼女はこの数字を答えた。女性はその数字を携帯に書きとめ、礼を言った。その礼は、少し急いでいた。
碗の底の一周の赤は、ラー油だ。味はごく淡く、油紙のすき間から漂ってくる。彼女は一度嗅いだが、どこの店のものかは分からなかった。
小黄が向かいの角から走ってきた。手には中華まんの包み紙を持っている。靴紐がゆるんでいて、走りかけてから途中でまた止まり、結び直した。
「周さん、誰にもらったの?」
彼女は、知らないと言った。
小黄が紙包みを差し出した。彼女は受け取り、カバンに入れた。カバンの中には、もう紙包みが三つある。この一つも、彼女は取り出さなかった。
彼女は紙を持ち上げ、街灯にかざして一度見た。紙には名前がない。門牌(もんぱい)もない。ほかの字もない。ただ、一つの時刻と、急いでいない一画があるだけだ。
彼女は、この紙を誰が書いたのかは考えなかった。考えていたのは、その数字が正しいということだ。あの日、女性が尋ねたとき、彼女は速くも遅くもなく答えた。その数字だった。
彼女は紙を碗の底へ戻し、油紙を畳んで、ゴミ箱の縁に置いた。斜めの口を上へ向けて。
彼女は麺を持ち上げ、掃除を続けた。