序部・塔が灯った夜
第3章時報の声
报时的声音
中国語の原文からの翻訳です。

青鸞(チンルアン)の手が目の前まで上がったとき、手の甲の暗い色の紋様は、ちょうど第二関節を越えたところだった。
彼女は手を下ろさなかった。
手は自分から上がったのだ。さっき、皮膚の下を何かが歩いていた。手首の骨から上へ、一節ずつ。速くはなく、かゆくもなかった。彼女は手をひっくり返して見た。そのまま目の前まで上げた。目の前まで来たとき、それはちょうど第二関節のところで止まった。
彼女はこのプラスチックの椅子に、三時間座っていた。右の足の踵は、ずっと床についていない。書くときの座り方だ。踵をつけると、もう書けなくなる。いまも踵は浮いている。ただ、もう下へ押しつけてはいない。
鍋の上の白い湯気は、斜め上へ昇る途中で止まり、動かない一本の白い線になっている。雨よけの端に連なる小さな灯りは、まだ点いている。その灯りの下で、細かい塵も止まっている。一粒ずつ宙に浮いて、ついさっきと寸分違わない位置にある。鍋の油は音を立てない。第七テーブルのホーローの碗では、入れたばかりのラー油の一さじが、片側へ広がりかけたところで止まっている。その縁は碗のふちから指二本ぶんほど手前にあり、もう下へ広がらない。高架の上では、車が一台、ちょうど継ぎ目を越えているところだった。伸縮継ぎ目を踏んだ車輪の音は、半分しか鳴っていない。
同じ一秒、ほかの四本の手も目の前に上がっていた。
東京の終電の窓ガラスには、一本の手が目の前に上がっている。ガラスの外、トンネルの灯りの列は三つ目の灯りで止まったまま動かない。手の甲の紋様も、第二関節と第三関節のあいだで止まっている。ソウルの古い練習室の鏡には、一本の手が目の前に上がっている。四本の指は、顎を上へ押し上げる形のままだ。爪が押しつけた白い跡は、まだ消えていない。パリの石段では、一本の手が目の前に上がっている。親指の付け根に古いたこがあり、そのたこの上に新しい裂け目がある。先週、地面に手をついたときに開いた裂け目だ。ニューヨーク、薬局のショーウィンドウの前では、一本の手が目の前に上がっている。掌は握られたままだ。汗が、中にあるもののねじ山を皮膚に写し取っている。一周ごとの溝が、数えられるほどはっきり残っている。
五つの塔は、同じ一コマの中で完全に静止した。
通りから見上げると、塔の胴は下の一部分しか見えない。視線は鋼とガラスに沿って上がっていき、ある所で届かなくなる。その先は、境目のない黒だ。塔の胴は、五つの色を次々と光らせた。玉白金。影のない蛍光白。鏡銀の冷たい桃色。金箔の赤い膠。紙幣の緑金。どの色も一度しか光らない。一度光った色は、二度とは光らない。まだ名乗っていない五人が、各自の札を先に出して見せたかのようだ。
塔の斜め上、五つの都市の空には、それぞれあの円が掛かっている。上海のは北東にあり、明るい面が四分の三を占める。東京のは北にあり、半分が明るい。ソウルのは三分の二が明るい。パリとニューヨークのは、三日月ほどしか明るくない。暗い大きな面には、砕けた光が一面に散らばっている。一片ずつが、別の都市の夜の灯りだ。五つの円のそばには、それぞれ黒い口が一つずつ開いている。口はどれも円より少し高く、どれも塔の側へ寄っている。
それから、それらは同時に動きを止めた。
三秒のあいだ、街のどこにも、落ちてくるものは一つもなかった。雨よけの鉄骨の下縁に、水の粒が一つ掛かっている。掛かったまま、落ちない。
第二の拍は、五つの塔が同時に押し出したものだ。
見えない輪が一つ、横から押し寄せてくる。高架下の看板灯、コンビニの冷蔵ケースの扉、タクシーの屋根の空車表示、テーブルに伏せて置かれた携帯、地下鉄のホームにあって、まだ終電を告げていた画面の列。世界中のすべての画面が、同じ一秒に白くなり、そしてまた同じ一面の光になった。もともと何が映っていたのか、この一秒のあとでは、誰も思い出せなかった。
東京のその車両では、ドアの上の流れる画面が、次の駅名を告げている途中で切り替わった。ソウルの練習室には画面がない。向かいのコンビニの画面が二枚、ガラス越しに光を差し込んでくる。その光は鏡の壁に落ち、鏡の壁がそれをもう一度映し返す。パリの地下鉄の入口では、券売機の画面が一瞬白くなった。機械の中では、硬貨がまだ落ちていた。落ち終えた。ニューヨークのあの陳列棚では、棚の一マスごとの値札が、小さな画面になっている。何十もの小さな画面が、同時に切り替わった。音は、何十回もの、ごく軽いカチッという音だった。
画面に映っていたのは、発光する記号の一続きだ。線は途切れている。切り口は鋭く、縁のどこにも薄れたところがない。光は縁まで届き、そこでそのまま止まる。記号と記号のあいだの間隔は、どこも等しい。行と行のあいだも等しい。
その線の形を、誰も知らなかった。
それなのに、全員が読み取った。
読み取り方は、字を読むことではなかった。屋台の主人は手にしていた麺の束を、まな板の上に戻した。果物を売る男は、秤を置いた。隣の人に、そこに何と書いてあるのかを振り向いて尋ねる者は、一人もいなかった。
それは天から降りてきたものではなかった。耳に貼りつくほど近くにあり、耳殻の中の産毛が何本か揺れた。それには反響がなかった。一言が終わると、声はもう消えていた。受けとめる部屋はなく、送り返してくる壁もなかった。それは時報のように、落ち着き払っていた。
「空は高すぎる。われわれがすでに代わりに触れておいた。」
同じ一言を、五人がそれぞれ一度ずつ聞いた。
明月(みつき)は、止まった車内で、それが駅の案内の声の下に沈んでいるのを聞いた。案内の声はまだ進んでいる。それは進まない。二つの声は重ならなかった。一方が前、一方が後ろで、それぞれ別の場所を占めていた。ジェウォンには、それが自分の数えている拍子の真ん中に落ちてくるのが聞こえた。その位置は、もともと空いていた。彼は一生、その空白に強拍を譲り続けてきた。スワンの手は、そのとき鉄の手すりに掛かっていた。夜の手すりは冷たい。声が届いたとき、手すりは震えなかった。彼女は手を上げ、自分の掌を一度見た。アンドリューがしたのは、昔からの癖だった。音源を探すことだ。彼は首を一度かしげ、もう一度かしげた。四つの方角を全部試した。どの方角でもなかった。声はどこからも来ていない。それはもう、耳の中にあった。
青鸞が聞いたのは、その一言の骨組みだった。十四字。字と字のあいだは、多くも少なくもない。
彼女はもう一つ、聞いたことがある。一言が終わったとき、最後の一字の余韻は引き延ばされなかった。人は話し終えても、必ず少しは余韻が残る。息がまだあり、口の形もまだある。それにはなかった。それは切られていた。
頭を下げるのにも、先後がある。通り中の人が頭を下げた。多くの人は、首の後ろの一箇所が先に緩み、頭が二寸ほど沈む。そのあとで目が伏せられる。逆に、目が先に伏せられ、首の後ろが後から追いつく人もいた。この種の人は深く下がり、顎が襟に触れるまでになる。通りの角で果物を売っていた男は、頭を下げたとき、まだ手に秤を提げていた。秤の分銅が竿を滑って、端まで落ちた。男はそれを押さえなかった。子どもを抱いた女は、まず子どもの頭を自分の肩に押しつけた。それから自分の頭を下げた。タクシーの運転手は、フロントガラスの向こうで頭を垂れた。手はまだハンドルに載っている。十時十分の位置のまま、動かない。
屋台の主人は、長柄の鉄の杓子を鍋の縁に戻した。カンと音が鳴った。その音に続いて、頭を下げた。彼が下げたのは首だ。先に緩み、目は最後に伏せる。十一年のあいだ、彼はこうして何度も頭を下げてきた。その順番は、一度も変わらなかった。
通り中で、雨よけのそばの青鸞だけが、頭を下げなかった。
拒んだのではない。数えていたのだ。
祖父は説書師だった。三歳のころから、彼女は机の下に座っていた。頭の上には机の天板があった。天板の上には醒木(せいぼく)と、檀板(たんばん)の一組が載っていた。祖父は上で語り、彼女は下で聞いた。彼女の指は、自分の膝の上で拍を打っていた。字を覚える前に、板を覚えた。一板三眼(説書の拍)。板は重いほうの一打ち、眼はその間の三打ちだ。打ち損じると、祖父は彼女を見ない。醒木を机に一度押しつける。天板が震える。すると、膝の上の彼女の手は、どこが間違っていたかを知る。祖父が彼女に一度、こう言ったことがある。「板は急がせない。引き延ばしもしない。急げば慌てで、延ばせば怠けだ。」
ある年、本の中にある一段を、語ってはならないことになった。祖父はその日も、いつも通り壇に上がった。そこまで来ると、その一段の字を全部省いた。板はいつも通り打った。字が減っても、板は残っている。それで、その一節はまるまる四拍ぶん空く。客席の誰も気づかなかった。茶碗はいつも通り鳴り、その四拍のあいだに咳をする者さえいた。机の下の彼女だけが気づいた。あの四拍は空っぽだった。きれいに空っぽで、ささくれ一つなかった。
客が散ったあと、彼女は祖父に、なぜまだ打つのかと尋ねた。祖父は醒木をしまいながら、頭も上げなかった。「板は残しておくんだ。字が戻ってくるとき、置く場所がいるだろう。」
書場はその後閉まった。檀板の一組は別の人の手に渡った。醒木だけが残り、彼女の家の戸棚の中、古新聞の上に置かれている。十九歳のとき、彼女はそれを取り出して一度だけ打った。音は記憶よりこもっていた。木はもう乾ききっていた。
彼女は二十年以上、数えてきた。人の話を聞くときは、まず板を聞く。誰が急ぎ、誰が延ばし、誰が一言の最後の半拍を盗んでいるか、聞き分けられる。会議では上司の板を数える。原稿を直すときは、自分の板を数える。今夜、七度目の削除まで行ったのは、第五版のあの一行が、数えると半拍多かったからだ。その余分な半拍は、彼女自身の後ろめたさが書き足したものだった。字を一つ足しただけで、もう自分の書いたものには聞こえなくなる。
塔が話したとき、彼女は数えた。
あの一段の話は、字と字の間隔がどこも同じ長さだった。長さは、同じ一つの数だ。彼女は三つ目の字で、もうわかった。ラジオの正時の時報の六つの音も、同じようにできている。最初の五つは同じ長さだ。六つ目が一拍だけ延びる。その延びた一拍は、人に聞かせるためにある。もう時間だと、人に知らせるために。塔のあの一段には、六つ目がなかった。頭から終わりまで、一つの数だった。急がず、延ばさず、盗まず、人に半拍も残さない。
揃いすぎている。
祖父のあの言葉が言っていたのは、人のことだった。人は急ぐ。延ばしもする。どちらも体から滲み出てくるものだ。塔は急がず、延ばさない。人は長い一言を話すとき、途中で必ず息を整える。息を整えるところで、板がほんの少し緩む。その少しの緩みが、人なのだ。
彼女は頭を下げることができなかった。首が緩まないのではない。手がまだ数えている。数えているかぎり、人は顔を上げて聞くしかない。
彼女の指が、膝の上で二度打った。打ったのは、自分の板だった。
半拍ずれていた。
第三拍:道を空ける。
あの見えない輪は、そのまま押し進んでいき、見ていた人々も押し流した。ビニールの雨よけ、折りたたみテーブル、電動自転車、通りの向かいのシャッター。それらが一層ずつ後ろへ退き、街角まで来て止まった。街角から振り返ると、屋台は手のひら幅ほどの明るみになっていた。人は、その明るみの中の黒い点になった。さらに上を見ると、五つの塔が遠くで、五本の釘のように立っていた。
塔は最後の一言を言い終えると、もう声を出さなかった。脅さず、説明せず、繰り返しもしない。
「塔の下に立つ者は、もう顔を上げなくていい。」
言い終えると、もう何もなかった。通りは二秒のあいだ静まり返った。それを受けとめるものは、何一つなかった。看板は鳴らず、ガラスも震えず、高架の上の車の流れさえ、ぺしゃんこに潰れた低い音が一筋残るだけだった。声が落ちた場所は、空っぽだった。
うつむいた頭は、十一秒のあいだそのまま保たれた。誰も先に起き上がらなかった。七、八歳の子どもが一人、半分だけ身を起こした。すると、母親の手がその子を押し戻した。うなじを、とても軽く押さえつけて。
ビニールの雨よけが、また押されて一度揺れた。雨よけの端の小さな灯りの連なりも、二度揺れて、止まった。暖橙色の一点が、通り全体で初めて小さく見えた。
青鸞は雨よけの下から、二歩出た。二歩目は、乾いていないセメントの補修跡を踏んだ。靴底が一瞬、くっついた。
彼女が言おうとしているのは、今夜のあの一行だった。七度削った一行。七度目の削除を終えて、彼女が削除キーから指を上げたのは、口に出せるようになるまで、取っておくためだった。
彼女は口を少し開いた。喉が一度動いた。右の耳の後ろから鎖骨まで続く、あの弧の一列が、続けて張りつめた。
声は出なかった。
これから先は、すべて高いところから見下ろす形になる。見下ろすほど、人は小さくなる。
塔は下りてこない。それは元の場所に立ち、やるべきことを、五つの都市で同時に済ませていく。
東京。終電は塔の下で止まり、動かなくなった。天井灯の白さが、車両全体に満ちている。明月は、空っぽの車両の中を一周した。足もとに自分の影が見つからない。二周目では、三度、床を見下ろした。ドアが、彼女の目の前で予定より早く閉じきった。彼女の手は宙に止まった。ドアとの距離は、七、八センチ。
上海。「和諧」の文字の弾幕が、ビルの隙間から流れ落ちてくる。列をなして、押さえつけてくる。青鸞が口から半句を出したとたん、その半句は口から三十センチのところで線に分解され、線は上へ吸い上げられていく。彼女はもう一度言った。また分解された。
「わたしはただ、話を言い終えたいだけだ。」
ソウル。鏡面ステージが、古い練習室の床からせり上がり、ジェウォンを中央に囲い込んだ。鏡の区画の中の彼の顔は、一コマずつに切られている。どのコマも、差し替えられる。四方からの補助光が同時に当たり、彼の身体には、自然な影が一つもない。
「何枚目まで直したら、それが自分になるのか?」
パリ。赤いテープが石段を伝って上がってくる。一巻き、また一巻き。まず古いスニーカーに巻きつき、四巻き目になって、ようやく左足を探しにいく。スワンは力を込めて、一度、足を持ち上げようとした。持ち上がらない。
ニューヨーク。値札が、一面にはらはらと落ちてくる。肩にも背にも、手の甲にも、靴の甲にも積もる。掌のネジの上にも一枚掛かり、胸の何も刻まれていない認識票にも一枚掛かった。アンドリューは手を伸ばして、薬棚の二段目を取ろうとした。値札のほうが、彼の手より先に棚に貼りついた。
「この勘定は、どうしても合わない。」
五本の光の柱が、高い空でひとつの大きな蓋になった。その下には、薄い明るさが一層残っているだけだ。さらに一歩退いて見ると、五人はますます小さくなる。一両の車内の一つの点。プラスチックの椅子の横の一つの点。鏡の輪の真ん中の一つの点。石段の一段の上の一つの点。シャッターの下の一つの点。もう一歩退くと、五つの点はそれぞれの都市の灯りの中へ縮んでいき、見分けがつかなくなった。
五つの点は、どれも互いに届かない。
塔のほうは、もう声を出さなかった。それはこの五つの点を見ていない。ほかの点も見ていない。言うべきことは、言い終えていた。
アンドリューはしゃがみ込んだ。
膝が先に鳴った。左の膝だ。その音は鈍く、肉を隔てた音で、彼自身にしか聞こえない。十九年、しゃがむたびに、まず一度鳴る。鳴り終われば、もう鳴らない。だから彼は、膝を支えたりしない。しゃがむ姿勢は昔ながらのもので、右の足を先に下ろし、左手を膝について、重心は右脚に乗せる。しゃがみ込んでからも、右の手はずっと握られたままだった。
彼は掌を開いた。
ネジは、まだそこにあった。
M6。ネジの溝には、スパナに噛まれた跡が一本ある。その縁は、ぐるりと光っている。何度もねじ込んでは外すうちに、磨り減った跡だ。これは義足の膝関節から外されたものだ。外した男は、家の入口の段に座っていた。使いにくいモンキーレンチで、四分かけて回した。外し終えると、それをアンドリューの手に置いた。三つの言葉を言って、背を向け、家の中へ戻っていった。
三つの言葉は今も覚えている。ほかのことは覚えていない。あの日、網戸が戻るときに二度鳴った。二度目は一度目より軽かった。ネジは、ずっと持っている。掌のその一周の皮は、ほかより厚い。握りしめて、できたものだ。
値札はまだ落ちている。一枚が、開いた彼の掌に落ちてきて、ちょうどネジを覆った。
彼は値札をどけた。どけたあとも、立ち上がらなかった。しゃがんだまま、掌を上に向け、指は閉じなかった。
蓋は、まだ頭上にのしかかっている。掌のその場所だけが、この通りで値札に覆われていない、唯一の場所だった。
ソウル。ジェウォンは、顎を押さえていた手を離した。
三ミリ、下へ戻る。鏡の中の顔は、元の位置に戻った。顎のラインは、基準より〇・四センチ短い。二十七度目を測ったあとは、数えるのをやめた。どの回も、この数だった。以前は、測り終えるたびに、手をもう一度上へ上げていた。今度は上げない。彼はそれを見ている。
画面の外、東京では、駅の案内の声が下に敷かれている。あと四駅。その案内の声の下に、もうひとつの音がある。一枚の紙が、もう一度広げられる、かさりという音だ。休暇届は、彼女の手の中で平らに伸ばされている。古い折り目が二本、今夜新しく折った一本を加えて、三本。紙面に横一列に並び、深さがそれぞれ違う。一本目が一番深い。何度も押しつけられた跡だ。三本目が一番浅い。押してからまだ二十分たっていない。彼女は指の腹を、一本目から三本目へと押し進める。紙面は指の腹の下で、三度うねった。
「三度折っても、まだわたしが書いたものだ。」
石段のほうから、音が一つだけ届いた。靴紐がきつく締め直された音だ。右足のほうだ。三つ目の穴を締めるとき、彼女は一巻き多く回した。足首の上に巻きつけた。その一巻きは、跳んだときに靴が脱げないためのものだ。十七歳のころから、そうしている。左足のほうは、巻かなくていい。
最後は青鸞。彼女は指をキーボードに戻し、呑み込まれたあの一行を、そのままもう一度打った。一字の違いもなく、句読点も同じだ。打ち終えても、彼女はそれを一度も見なかった。
五人は、同じ一拍のうちに、自分が誰かを思い出した。彼らが使ったものは、同じではない。ネジ、顔、紙、靴紐、一行の文字。どれも小さなものだ。どれも、手の届くところにあった。
この一拍では、誰も揃っていなかった。半拍早い者もいれば、半拍遅い者もいた。
青鸞は顔を上げた。
時間が半ば止まった。
雨粒は地面から一メートルのところで止まっている。湯気は白い線のまま止まっている。弾幕の線は空中で止まっている。ニューヨークのほうから落ちてきた紙片も、空中で止まっている。塔は動かない。街も動かない。動いているのは、彼女だけだ。
彼女を見ているあの線は、右の耳の後ろから始まる。同心の弧の列の一つ目の環に沿って、ゆっくり百八十度まわる。弧はまだ光っていない。一つの環も光っていない。
まわっていくあいだ、すべてが止まっている。折りたたみテーブルに立ててある竹串入れ。テーブルの隅にある、誰も手を触れていないホーローの碗。鍋の縁の鉄の杓子は、柄を外へ向けている。何気なく手に取れる角度だ。屋台の主人はまだ頭を下げている。右の肩の濃い灰色のタオルは、片方の端が垂れている。長いほうの端だ。
正面へ回り込む。
彼女の眼鏡のレンズには、薄く水蒸気が曇っている。さっきのあの一口のスープの湯気だ。その曇りの向こうに、彼女の目がある。
瞳の奥に、一つの点が灯った。
一つだけだ。針の先ほどの大きさだ。青藍(せいらん)の光。
それは外へ広がらなかった。彼女の顔を照らすこともなかった。ただ、そのままの大きさだった。
同じ一秒、ほかの四か所でも、それぞれ同じ点が灯った。車窓に一つ。鏡の中に一つ。手すりのガラスに一つ。水たまりに一つ。はっきり誰か見分けがつくのは、水たまりの中の一つだけだ。ジェウォンの横顔の半分が映っている。顎から耳殻まで。断面がささくれた、あのピアスが、光の点のすぐそばにある。残りの三か所は、まだただの光の点だ。顔の形さえない。
四つの点は、どれも動かない。彼女の一つと同じ大きさで、同じ明るさだ。どれも針の先ほどしかない。通りでは、まだ誰も顔を上げない。
青鸞は、その四つの点を見つめていた。
「……あなたたちにも、聞こえた?」