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第一部・調和の下で

第6章七度目

第七遍

中国語の原文からの翻訳です。

第6章 七度目

反射しない黒が上から下りてきて、しゃべっている一つの顔を丸ごとくり抜いた。

顔は老人のものだった。老人はシャッターの前に立ち、携帯を手にした相手に向かって話していた。口は開いては閉じ、音は青鸞(チンルアン)が切ってあった。話の途中で、その黒が画面の上端から落ちてきた。滑ってきたのではない。上から押し下りてきたのだ。四つの辺が、額の上、顎の下、両耳の外側に、そろって切り込んでいた。ちょうど顔一つぶんの大きさだった。

携帯は竹串入れに立てかけてあった。画面のガラスには、雨よけの端に連なる小さな灯りが映っていた。暖橙色の点が十五個ある。黒い面の上には、点が一つもない。ガラスはあのガラスのままだった。その一画だけが、反射しなかった。

彼女は二つ数えた。一、二。

二つ目が落ちると、黒が縮んだ。四つの辺から内へ寄ってきて、平たい一本の帯になった。一行の字ほどの高さだ。色も抜けて、灰白になった。灰白の空いた帯に、字はなかった。老人も、シャッターも、下に出ていた説明の一行も、全部消えた。残ったのはこの一本だけだ。

彼女は下へスクロールした。三、四本おきに、また一本。さらに下へ送ると、また一本。太さはどれも同じだ。午後からずっとこうだった。

彼女はそのページを閉じ、下書きを開いた。

その一篇は、まだあった。四百十二字。最後の一行は、昨夜打ったものだ。昨夜いったん消し、また一字ずつ、そっくり打ち直した。字は一つも変えず、句読点も変えなかった。だから、これは八度目ではない。まだ七度目だ。

昼間、彼女は職場で原稿を直す。人の原稿も、自分の原稿も直す。直し終えたら審査に回し、審査が通ってから刷られる。六年もやっていれば、どの字に丸がつくかは、審査する人より先に分かる。夜のこの一篇は、職場のものではない。誰も書けとは言っていない。書き終えても、どこへ出せばいいのかも分からない。一度目は今年の春に書いた。この机の上で、あの手のひらほどの折りたたみキーボードを使って。

七度の直しは、すべて別の場所に手を入れたものだった。形容詞は取り、動詞はやわらかい言葉に換えた。句点は読点に替え、長い段落は二つの短い段落に分けた。前後の字を、何度も後ろへずらした。あの一行が真ん中に挟まって、目立たず、そのまま通ってしまうように。あの一行の中で連なっている三字だけは、一度もずらさなかった。

祖父のあの言葉を、彼女は覚えている。「板は残しておけ。字が戻ってきたときに、置く場所があるように。」 ほかの字がずれているのは、あの三字のために場所を空けているのだ。

呑み込まれる一句は、見なくても分かる。そこまで打つと、右手の薬指が勝手に遅くなる。彼女がその指を遅くさせたのではない。板にも半拍余分が出る。その半拍は彼女が自分で足したものだ。字を一つ足せば、あの一句はもう彼女の書いたものには見えなくなる。

まず、スクリーンショットを一枚撮った。

それから、削除キーを押し続けた。

カーソルが後ろへ戻っていき、字を一つずつ呑み込んでいく。小指が先に離れ、薬指が続き、人差し指が最後に動く。あの一行を書くときは、毎回、彼女の手が止まる。消すときは、手が一度も止まらない。消すほうが、書くより滑らかだ。

画面の上端から、緑の通知が一つ滑り下りてきた。二文字だけで、「通過」とある。

彼女は何も提出していない。ただ消しただけだ。

親指で緑の通知をはじき消し、スクリーンショットをあのアルバムへドラッグした。アルバムは設定の下のほうに隠してあり、彼女の指紋を当てなければ開かない。中には全部で七枚ある。一回ごとに一枚。七枚を並べて見ると、ほかの字はどれも動いている。あの三字だけは、一画も変わっていない。

下書きの中のあの一行は、空いてしまった。カーソルが一番左で止まり、点滅している。

彼女は親指を当て、指の腹で空白の一行を行ったり来たりさすった。左から右へ、右から左へ。画面は擦られて熱くなり、指紋の脂の筋がついた。字は出てこなかった。

「七度目だ。それが生き残れるところまで直した。」

彼女はごく小さな声で言った。空白の一行に聞かせるように。

鍋の縁が、カンと鳴った。欠けたほうが先に鳴った。くぐもった音だった。

屋台の主人は彼女に背を向けて、鍋の前に立っていた。右肩には濃い灰色のタオルが掛かり、長いほうの端が垂れている。彼は長柄の鉄の杓子をラー油の瓶に差し入れ、底まで押し込んで持ち上げた。赤い油が欠けに引っかかり、一滴も落ちなかった。彼はこちらへ来て、彼女の碗に注いだ。まるまるひと匙。

一言も言わず、鍋の前へ戻っていった。

碗から湯気が立ちのぼり、レンズに吹きつけた。両方のレンズが白くなった。細いひびの入った、あのホーローの碗は見えなくなった。白の向こうには、赤い一つの塊しか残っていなかった。

彼女は一度、笑った。口の端は上がったが、目はついてこなかった。レンズは白い。目がついてきたかどうかは、誰にも見えない。

半匙が彼女の量だった。去年のあの冷たい雨のあとから、ずっと半匙だった。

一匙は昨夜から始まった。

彼女はこの二つを照らし合わせてみた。三週間途絶えてから戻ってきた、あの夜のことだ。彼女は自分から鍋の前へ行き、湯気越しに、もう少し入れてほしいと言った。彼がくれたのは半匙で、多くはなかった。口に出して頼むと、彼は半匙をくれた。頼まず、一口も手をつけずにいると、彼は一匙くれた。昨夜、彼女は七度目を消した。今夜も、七度目をまた消した。二晩とも、彼は一回ずつ足した。

彼は一度も、彼女が何を書いているのかを尋ねない。彼に見えるのは、画面の上を行ったり来たりする彼女の親指だけだ。

彼女の側では一行減り、彼の側では半匙増えた。

彼女は碗を自分のほうへ、半寸引き寄せた。

彼女は白磁の匙を取り、その赤い一匙を、スープの中へ少しずつかき混ぜた。スープの色が変わるまで、混ぜた。

襟元から指二本ぶん下がったところに、その弧の連なりが服の下に隠れている。昨夜は光っていた。右耳の後ろから、環が一つずつ光り、鎖骨まで届いた。今朝起きて、鏡の前で襟を広げた。弧の連なりは、まだそこにあった。まだ光ってもいた。ただ、灰色になっていた。明るさは少しも減っていない。色だけが抜き取られて、セメントのような灰色の層が残っている。触ると平らだ。

背中の二枚の羽も引っ込んでいた。昨夜は広がっていた。真ん中に隙間が残り、その隙間から道路が見えた。今朝は、二本の細い帯に畳まれていた。肩甲骨に沿って下へ、左右に一本ずつ。冷たい。一本のベルトより、さほど広くない。彼女は職場で一日中座っていたが、背中は一度も椅子の背にもたれなかった。

昨夜ようやく手に入れたものが、一眠りするともう引っ込んでいた。塔が最初に取り上げたのは、これだった。

屋台の外が、先に一度暗くなった。

交差点の大型ビジョン、コンビニの冷蔵ケースの扉、向かいのシャッターの灯箱、竹串入れに立てかけた携帯の画面。それらが、同じ一秒で、全部黒くなった。一拍のあいだ黒いまま、それからまた明るくなる。どれも同じ玉白の一面になっていた。字はない。記号もない。何もない。白の中に、金が少しにじんでいる。

匙が彼女の手から滑り落ち、碗に入って、赤い層の下へ沈んだ。

彼女はすくい出そうとはしなかった。

通りの向こうで、二棟のビルのあいだの隙間から、一本の光が地面から上へ昇っていく。川の対岸からだ。光は塔の底から起こり、まっすぐ上へ伸びる。彼女の頭上まで来ると、その黒で途切れる。高架の橋面が屋台の上に横たわっていて、橋面より上は、彼女には何も見えない。見えるのは光の柱の下半分だけだ。太く、白く、少しも揺れない。

通りの人が立ち上がった。

一番目のテーブルに二人、三番目に一人、五番目に三人。箸を置き、碗は押しやらず、代金も払わなかった。立ち上がると、みな、うつむいたまま向きを変え、同じ方向へ歩き出す。あの光に背を向けて、西へ。

橋脚のそばで順番を待っていた人も、行ってしまった。自転車に乗っていた人は降り、押して歩く。誰も走らない。

歩くうちに、足音が揃ってきた。最初は通り一面の乱れた音で、何十足もの靴が、それぞれ勝手に踏んでいた。二十歩ばかり過ぎると、音は一打ずつにまとまった。一打ごとの重さも、間隔も同じだった。彼女は三つ数えたところで、それと分かった。昨夜、塔が話したあの板だ。

屋台の主人は行かなかった。うつむいたまま、三つの鍋のあいだの浅いくぼみの中に立っていた。かかとは動かさない。火は消していない。最小まで絞ってある。

彼女は立ち上がり、腰掛けをテーブルの下へ押し戻した。ポケットには、二つに折った紙幣が一枚ある。彼女はそれを碗の下に押し込んだ。

それから、東へ歩いた。

人が向こうから次々とやってくる。みな頭をうつむけている。彼女は体を横向きにし、肩を一人ぶん避け、また一人ぶん避けた。誰かのひじが彼女の腕をかすめた。その人は止まらず、顔も上げなかった。誰一人、彼女を見なかった。

通り全体の足音が、同じ一拍に落ちている。彼女の足だけは、その拍の半拍後ろに落ちた。わざとではない。指は太ももの外側で、自分の板を押さえていた。一板三眼(説書の拍)。足は手について歩いていた。

交差点を二つ越えた。

一つ目の交差点の信号は、いつもどおり変わっていた。赤になり、緑になり、また赤になる。車が止まることも、待つ人もいない。二つ目の交差点で、彼女は一度振り返った。屋台はもう見えなくなっていた。高架の下に並ぶ小さな灯りは、まだ点いていた。ごく小さな、暖橙色の一点だ。通り一面の灯りのあいだに、掛かっている。

彼女は前へ向き直り、歩き続けた。

川沿いの堤防に、石段が一本、設けられている。十九段。石でできていて、表面には湿気が一層浮いている。

上から下りてくる人のほうが多い。さっきまで川辺で夜景を眺めていた人たちが、みな体の向きを変え、うつむいたまま一段ずつ下りていく。歩く速さは、どの人もそろっている。青鸞だけが、逆らって上っていく。

ゴム底が濡れた石を踏むと、まず吸いつき、それから離れる。どの段の縁にも、滑り止めの溝が三本刻まれている。靴底が乗ると、溝が一度噛み、また緩む。吸う。噛む。離す。彼女が一段上がるあいだに、一人が一段下りて、彼女の脇を通っていく。小さく風が起こり、その風には川の水の生臭さがある。

七段目で、一人の女の提げ鞄が彼女の腰にぶつかった。女は止まらなかった。

十二段目で、肩の後ろが一度ゆるんだ。

披帛(ひはく)が、ひとりでに出てきた。両肩から滑り落ちていく。墨青(ぼくせい)の長い布が一筋だ。初めは濡れていて、重く、腕に貼りついたまま下へ垂れた。手首まで垂れると、ふいに軽くなった。末端がほどけて、細かな光の粒になって散った。下へは落ちない。上へ昇っていく。

襟元の下が、それに続いて一度締まった。あの灰色の層が、いちばん内側の環から裂け始めた。とても細い筋になって裂け、その下からの光に、少しずつ押し広げられていく。第一の環が光った。青藍(せいらん)の、一周の光だ。右耳の後ろに貼りついている。

第二の環は光らなかった。まだ灰色のままだ。背中の二本の細い帯も、動かなかった。

彼女は上り続けた。十九段目。

川幅は広かった。対岸のあの塔は、ちょうど水の向こうに立っていた。

三本の支柱、何本かの斜めの支え。大きな球が一つ、支柱のあいだに挟まっている。球の窓が一つずつ、白く点いていた。さらに上では、光の柱が塔の底から立ち上がり、塔の胴を包んでいる。上へ行くほど白くなり、その白さのなかで、上の球はただの影になった。影より上は、もう何もない。光が残りを全部呑み込んでいた。彼女には、塔の頂が見えなかった。

北東の空に、あの円が掛かっていた。

あの円は川面の上空に掛かっていた。月の二十数倍の大きさだ。大きすぎて、全体を見るには彼女は首を一度回さなければならなかった。明るい面が四分の三を占めていた。縁には淡い紫の一周。明るい面には白い雲が塊になって、動かずにあった。暗いごく小さな一角には、砕けた光の粒が数粒あった。円の右上、円より少し高い位置で、塔に寄ったほうに、黒い口が一つ開いている。その縁には、ごく細い白い輪が一本走っていた。輪の外の星は、ねじれて曲がっていた。

昨夜もあの円は、そこに掛かっていた。彼女には、それが何なのか分からない。石段を下りていく人たちは、一人も顔を上げなかった。

彼女は眼鏡を外した。

レンズの左右それぞれに、白いかたまりが一つずつ映っている。光柱の白だ。光が当たると、レンズはそれを送り返す。送り返すその一瞬に、向こうには、彼女がどこにいて、どこを見ているかが分かってしまう。

六つのとき、書場の舞台裏で、幕の端に立って飛天(ひてん)を舞う人を見ていた。舞台の袖からの横の光が、彼女の顔に当たっていた。道具を運ぶ男が通りかかり、一言言った。「小娘が何を見てやがる」。彼女は立ち去らず、その場面を最後まで見た。けれどあの日から、光の当たらない場所に立って見るようになった。十二で眼鏡をかけたとき、もう一つ覚えたことがある。ものを見るとき、顎を少し引く。二、三度引く。そうすると光はレンズの縁に落ち、送り返されない。十六年、顎はずっと引いたままだった。

昨夜以来、眼鏡をかけなくても、よく見えるようになった。それでも今朝、彼女は眼鏡をかけた。手のほうが頭より速い。

眼鏡をたたんで、上着の左のポケットに入れた。

顎を上げた。

彼女は見に来たのだ。あの光に見せに来たのではない。

そのとき、光の柱が動いた。

塔の底から一本が分かれ、川面に貼りつくようにして、横へ伸びてくる。速くはない。進むあいだに、水面を一筋の白に照らしている。岸に着くと、手すりに沿って進んだ。空になった長椅子の列を通り、人の捨てた紙コップを通り、石段の上まで来て、彼女の靴先の前で止まった。

探して来たのだ。昨夜、あの光は空中で一度くるりと回った。人を選んでいるかのようだった。今夜は、選び終えていた。

光は白い。白の中に、冷たい金が少しある。縁は一刀で切ったように揃っていて、ほつれがない。

右耳の後ろの環が跳ねている。一打ずつ、彼女の板に合わせて。

「あの一句は、わたしが自分で消した。今夜、取り返しに行く。」

話しているあいだ、第一の環は少しだけ透き通るように光を強めた。第二の環は、まだ灰色だ。声は外へ出ていったが、川の上には受けとめるものがない。風が声を西へ運んでいった。

彼女は一歩踏み出し、その中へ踏み入れた。

左足はまだ濡れた石の上にある。右足を下ろすと、もう濡れてはいなかった。

床は玉白だった。

四角い床石が一枚ずつ並んでいて、どれも同じ大きさだ。目地は一本一本が、向かいの目地と揃っている。紙一枚も差し込めないほど細い。目地は彼女の足もとから、遠くまで続いている。右足の靴底の水が、床石の上に一つの跡を残す。次は左足、また一つ。

和諧殿の中には、行く手を遮るものがなかった。

振り返って一度見た。背後も壁だった。玉白で、扉はなく、継ぎ目もない。さっきの光がどこから入ってきたのか、見当がつかなかった。

柱はなく、灯りもなく、窓もない。壁には字が一つもない。光は壁そのものから出ている。均一に、四方が同じ明るさだ。壁も玉白で、厚く、弧を描いて、上で合わさり、一つの天井になっている。壁は外の光を少し透かしている。外に何かがあるのは見える。しかし、何なのかは見分けられない。

彼女は前へ一歩進んだ。足音が出ていき、壁にぶつかって、尾を引いて戻ってきた。尾は二拍ぶんの長さがあった。がらんとした場所だからこそ、音はこれほど長く尾を引く。

左側の一面だけは違った。尾が短く切れ、戻ってくるのが速く、くぐもっていた。そちらは壁を隔てて、大きな何かが貼りついているのだ。

もう一歩進み、もう一度聞いた。左側はやはりくぐもっている。あれは動かない。

正面は階段だった。二十七段。玉白で、どの段も同じ高さだ。下から上へ二度数えた。どちらも二十七だった。

階段の上、ちょうど真ん中に、木の杭が一本立っている。墨のように黒い。人より少し高い。杭の胴には、浅いくぼみが一列ずつ並んでいる。これほど離れていては、ただの模様としか分からない。杭には古い裂け目が一本あり、斜めに上から下まで走っている。裂け目には白い布の切れ端が挟まっている。遠くからは、ただ白い一点だ。

彼は杭の前に立っていた。

これほど離れていては、見えるのは輪郭だけだ。玉白の長衫。裾は膝の下まで垂れている。腰には墨のように黒い帯が一本あり、きつく締められている。彼は素手で、両手には白い布が巻かれていた。布は指の根元から手首まで巻き、指先だけが外に出ている。右腕の白布は、左腕のものより厚い。一周ごとに、次の一周が重なっている。袖口まで巻き続いている。何周あるのか、彼女には数えられない。

彼は両手で抱拳(ほうけん)をしていた。拳を掌で包み、胸の前に抱えている。武芸の人の礼だ。右手は抱拳の中から半寸ほどほどけ、胸の前で止まっている。起勢(きせい)の構えを、まだ終えていない形だ。

書場の舞台裏には、かつて芝居一座の衣装箱が置かれていた。彼女は、人がこうして見得(みえ)を切るのを見たことがある。一拍のあいだ止まり、客席から喝采が上がる。止まっているその一拍のあいだでも、人は息をする。胸が衣装の下で上下する。前のほうに座った客には、見える。

彼は半秒、構えたまま止まった。

この半秒のあいだ、何も動かなかった。殿の中には塵がある。とても細かい。もとは光の中で、少しずつ沈んでいた。この半秒のあいだは沈まず、もとの場所に止まった。彼女の披帛の末端で、上へ昇っていた光の粒も止まった。彼の胸は動かなかった。

半秒が過ぎると、最初の波紋が彼の足もとから押し出された。

風はない。音もない。波紋は二十七段の階段を、一段ずつ流れ下りていく。下まで流れると、床石の上を這って、彼女のほうへ押し寄せてくる。彼女の靴底が持ち込んだ数か所の水たまりが、まず波紋を立てた。模様はすべて外へ向いている。そのあとは、彼女の番だった。

彼女は押されて、後ろへ滑った。ゴム底が床石の上できしんだ。二度、短く。披帛は押し潰されて、背中に貼りついた。

止まったとき、彼女は足もとの床石を数えた。階段の最下段から、ちょうど十二枚ぶん離れていた。

彼は、彼女をここに立たせたがっていた。

青鸞は顔を上げて彼を見た。顎は引かなかった。

右手の側、肩と同じ高さの場所に、空気の中から長方形のものが浮かび出た。

淡く、玉白の下地。枠はない。左上の隅に一枚の写真がある。彼女だ。正面を向き、眼鏡をかけている。顎は二、三度引かれている。職場の社員証にあった、あの一枚だ。写真の下には数行の字がある。何と書いてあるかは、見えない。その下にはさらに数行の数字が並ぶ。数と数の間隔は同じだ。最後の一行は字ではない。灰白の空いた帯が一本。彼女の携帯にあった帯と同じ幅だ。

彼は彼女を見なかった。視線は、彼女の右手の側にあるその一枚に落ちた。眼鏡をかけた写真の上で、止まった。

彼女は眼鏡をかけていない。写真のそばから、腕一本ぶんの距離に立っている。彼の視線は、一度もこちらへ動かなかった。

彼は口を開いた。

「秩序即和諧。」

一つの声。一字ずつ、杭の拍子に乗って落ちてくる。

彼女は数えた。五字。五拍。一拍に一字。多くも少なくもない。

殿はこんなに広いのに、彼女の足音は二拍ぶん尾を引く。彼の声は尾を引かない。耳に直接落ちてくるようで、言い終えるとそれきり消えた。

「和諧即服従。」

五字、五拍。前の一句との間も、一拍だけ空いていた。

言い終えた一拍の上で、彼の右の拳が一拍、左の掌へ落ちた。音はしない。木の杭も鳴らなかった。それでも拍子は杭のほうから来る。一拍ずつ。彼女には数えられた。

壁は光を透かし、外の模糊とした明るさが見えた。川のほう、彼女がさっき歩いてきた側だ。第一拍で、川寄りの一片が暗くなった。第二拍で、その奥の一片。第三拍、第四拍と、一片ずつ西へ退いていく。第六拍、壁の外には、横に伸びる明るい線が一本だけ残った。高架だ。

第七拍。高架のあの線が途切れた。

あの灯りの列は、彼女が数えたことがある。十五個。高架の下、東から三本目の橋脚のそばに掛かっている。この壁を隔てて、これほど遠くては、あの灯りは見つけられない。見えるのは、線が途切れたことだけだ。途切れたあと、その一帯には何も残らなかった。

ポケットには、あのメモがまだ入っている。書いてあるのは時刻ひとつだけだ。夜十時半。あの日、通りを掃いていた掃除のおばさんが答えた、仕事を終える時刻だ。今が何時か、彼女には分からない。携帯の画面は白い。

親指で太ももの外側を二度押した。一度は軽く、一度は強く。

「服従即幸福。あなたは今夜とても幸福だ——あの一句は、あなたが自分で消した。」

後半の言葉は彼女のものだった。川辺の石段の上で、彼女が口にしたあの言葉だ。彼はそれを受け取った。一字も違えず、「わたし」を「あなた」に替えただけだった。長さまで同じだった。

ダッシュのところで、一拍空いた。人が長い一言を話すと、その箇所で必ず息を整える。息を整える箇所では、板がわずかにゆるむ。彼のその一拍は空っぽだった。きれいに空っぽで、息もなく、ゆるみもなかった。

彼女は、祖父が省いた一段を思い出した。字は省かれ、板は変わらず打たれる。舞台の上には、ちょうど四拍ぶんが空く。その空きも、同じようにきれいだった。あの四拍は、残してあるのだ。

写真の下の数字の行が、一度動いた。最後の灰白の空いた帯の横に、二字増えた。

彼はその二字も読み上げた。やはり一つの声で、一字ずつ杭の上に落ちる。一字一拍で、「通過」。

第二字を読み上げたところで、音がわずかに上がった。ほんの一点だ。量れるほどの、わずかな一点。

人をほめるときの調子だ。彼女は職場で、何度も聞いたことがある。原稿を送ると、審査する人が電話の向こうで読み終え、この二字を言う。そのとき、第二字も上がる。

彼の言った字には、殿の中で、こだまが一つもなかった。